私が大学を卒業した1968年は、就職難でした。卒業する一、二年前には、山陽特殊鋼や山一證券、毎日新聞などいくつか大きな会社が一度破綻しています。よく「十年に一度不況が来る」といわれていましたが、1960年代の後半は東京オリンピックの反動で景気が後退し、さらに学生運動が盛んになるなど、少し不安定な時期だという感じがしていました。
そんな訳で、就職先を決める際は選択肢がそれほど多かったわけではないのですが、いくつかの会社の試験に失敗して、一度は警察官や自衛隊員になることも考えました。その後、知り合いの薦めもあり、髙島屋に入社しました。入社する時に、その人に「嫌だったら辞めてもいいが、三年間はがんばってみろ」といわれたことを覚えています。
それでも、入社してからいままでの四十年間、不思議と一度も「会社を辞めたい」と思ったことはありません。嫌だと思うことはあまりなかった。周囲の人たちには恵まれていたと思うので、それが辞めたいと考えなかった理由のひとつかもしれません。
入社してすぐに、東京店の家具売場に配属になりました。仕事は販売だけではなく、中央区の越前堀にあった納品場での搬出作業もやっていました。家具は大きいので、お客様が買う時にはほとんどの場合配送になります。しかし売場に置いてある商品は見本なので、問屋が家具を納品する場所にいき、商品と伝票を照合してさらにトラックに載せて搬出する。その一連の作業をやっていたのです。
今は売場の販売員が搬出作業まですることはありませんが、そのころはトラックの運転手と一緒に梱包作業もしていました。タンスを担いで運ぶこともあった。でも若かったので、大した肉体労働だとは思いませんでしたが、学生時代に野球や柔道で鍛えていたことが役に立ったと思います。あのころは、一年の三分の一は売場、三分の二は納品場での作業をやっていました。
家具は百貨店以外ではほとんど販売されていない時代でしたから、売場面積は今より広く、商品はよく売れていました。当時は嫁入りの時に婚礼家具の三点セットを必ず持って行きましたし、今のように家具が作りつけになっているマンションも少なかったのでなおさらでした。
家具売場にはトータルで四年在籍。タンス、鏡台などを扱う和家具売場に始まり、結局は絨毯以外のすべてのインテリアを担当しました。特に最後の二年間は、輸入家具売場の担当者でした。そのころの百貨店業界は、会社の規模、グレードを含めて三越がナンバーワンでしたが、髙島屋は「輸入品に強い」「センスがいい」と評価されていました。当時は、輸入家具にも力を入れており、ホテルでヨーロッパ家具フェアを催しました。
商品は全部、バイヤーが海外から直接買いつけてきて、商品を積んだ船が東京湾につくと、私たちがそこで関税の手続から何から全部済ませて、商品を各店に分配するわけです。問屋機能がないため、全部自分たちでやらなければなりませんでした。これは大変でした。例えばイタリアから輸入した大理石のテーブルなどはものすごく重たくて、しかもちょっとぶつけるとすぐひびが入りますから運ぶのに気を遣う。商品に値段をつけたり、江東区辰巳にあった倉庫で仕入会議をやったりと、いろいろなことを経験しました。商売の基礎もみっちり叩き込まれました。
その後家具売場から人事部に異動になり、一年半ほど新入社員の教育係を担当しました。ちょうど髙島屋が拡大期に入っていたので新入社員が大量に入ってきており、多い年には何千人と採用したのです。
私が入社して二年の間に立川店、大宮店、玉川店が出店し、それからしばらくして柏店や高崎店がオープンしました。当時は食堂や駐車場の担当者もみんな正職員でしたから、本当にたくさんの人材を必要としていたのです。考えてみれば、私が入社した年が採用数の一番の底で、それからどんどん増加していきました。
教育係として、社史や各支店の概要、販売に必要な基礎知識などを教えたり、模擬販売で実際に販売員の作法の基礎を教えていくロールプレイングなどをやりました。富士山の裾野、御殿場にある青年の家(現国立中央青少年交流の家)で研修を行ったのですが、料金が大変に安かった。食事つきで一人五十円でした。そのかわり献立は本当にひどいもので、ご飯と紅しょうがと味噌汁だけ。それでも新入社員は、一回でトレーニングを終えて帰ることができるのでまだマシでした。何千人もいる新入社員は数班に分けられるのですが、教育係はすべての班が導入教育を終えるまで、ずっとその食事を食べなければならなかったのです(笑)。