代表取締役社長 鈴木弘治
売場で商売の基本を叩き込まれたという鈴木弘治社長。江戸時代から続く髙島屋のブランドを現代的によりいっそう強化し、苦しい時代には構造改革に取り組んで経営の健全化を軌道に乗せてきた。ここでは鈴木社長の生い立ちから学生時代、そして企業人としての今日までの経験やエピソード、経営者としての考え方を聞いた。
私は、1945年6月に神奈川県の鎌倉市長谷で生まれました。終戦の二カ月前です。私が子どものころの長谷はいわゆる「お屋敷街」で、五百~一千坪の大きな家が周りにたくさんありました。だから自宅がずいぶんと小さく見えたものです。
しかしその後、そうしたお屋敷街も分割して相続され、またそれが次々とマンションに変わり、今では昔の面影はほとんどなくなりました。
両親と弟の四人家族だったのですが、父は私が小学一年生の時に亡くなりました。
思い出といえば、父が紳士物の既製服を百貨店などに卸す問屋を営んでいたため、百貨店の人たちが自宅によく遊びにきていたことです。特に夏になると、海まで歩いて五~六分程度だったこともあり、「海の家」のように使っていました(笑)。父が亡くなってからは、母が一人で私たち兄弟を育てたのですが、それほど苦労した覚えはありません。父が会社を営んでいたこともあり、多少は経済的な余裕があったのでしょう。それでもまだ厳しい状況だった中で、男の子二人を育てなければならなかったのですから、母は大変だったと思います。
母は、名古屋の出身で事業家の家系なのですが、父が亡くなった時、実家から持ってきた着物を売り、株を買ったそうです。その後高度経済成長期に入って株価も上がり、その判断が正しかったことがわかるのですが、母にはそうした才覚があったのだと思います。負けず嫌いな一面なども含め、私はどちらかといえば母親似です。
子どものころは、非常に自由奔放といいますか、ガキ大将だったと思います。とにかく体を動かすことが好きでした。近所の子どもたちとよく外で遊んでいましたが、一番熱中したのは野球です。十八人揃わなくても、十人集まれば五人対五人で三角ベースをやったりしていたので、ポジションも決まっていなかった。鎌倉の海岸と住宅地の間には空き地がたくさんありましたから、野球をやる場所には困りませんでした。
中学生の時に、『太陽の季節』という映画が大ヒットしました。当時の若者はみんな、石原裕次郎さんが演じる不良高校生の生き方に憧れて真似をしたため、映画をもじって「太陽族」ということばが生まれたほどでした。私も裕次郎さんと同じ慶應高校に進学したということもあり、ずいぶん影響を受けました。いわゆる不良高校生だったかもしれません(笑)。
母に一番心配をかけたのもこのころです。鎌倉の海岸で他校の生徒とケンカになったのです。原因は覚えていませんが、高校生同士のケンカですからちょっとしたことがきっかけだったのでしょう。こちらは三人、相手は七、八人いたのですが、私たちはみんな体が大きかったので、人数では負けていてもケンカでは勝ちました。
母はケンカをした相手だけではなく、「自分の息子のせいで、一緒にいた仲間の親御さんにまで迷惑をかけた」と、かなり気に病んでいたようでした。しかし、私には取り立てて何かいうこともなく悲しそうな顔をするだけで、それがかえって胸にこたえました。母には迷惑をかけましたが、このころに一通り悪いことも経験し、そういうことからは卒業していましたから、大人になってからは、馬鹿なことをやろうとは思いませんでした。
その一方で本をよく読みました。たまたま家に日本文学を中心とした本がたくさんあったので、自然と中学生のころから家にいる時によく読んでいました。最初に読んだ本は、山本有三の『路傍の石』。その後も『真実一路』、夏目漱石の『坊ちゃん』『我輩は猫である』、志賀直哉の『暗夜行路』、芥川龍之介の『河童』など。読み始めると時間も忘れて夢中になって読んでいました。今にしてみれば、ずいぶんませていたかもしれません。本をたくさん読んでいたので、国語の成績だけは突出してよかったんです(笑)。
大学は慶應義塾大学に進みました。慶應高校の生徒は受験する必要がなく、推薦入学することができます。私は文系志望だったので、経済学部に進みました。
私たちは全共闘世代でもあります。中学生の時には六十年安保があったのですが、その後は大きな学生運動は起きていませんでした。ところが東京オリンピックが終わった一九六四年の暮れから翌年にかけて、ちょうど私が一年から二年に進級する時だったのですが、学費値上げへの反対闘争が始まりました。慶應では学生運動はわりあいにおとなしかったのですが、とうとう火がついてしまったのです。それで全学ストライキに突入。慶應の反対闘争が鎮まった後も、他大学では学生運動が続いていて、構内に入ると立て看板がずらーっと並んでいたのを覚えています。
このような時代でしたから、私もデモに参加していました。また学生運動が激しかった頃は休講も多かったので、そんな時は「やったー!」と拍手してみんなでマージャンにいくこともありました。私自身はさほど好きではなかったのですが、学生の間でマージャンが流行っていたこともあって頻繁にやっていました。マージャンは性格が出るのですが、私はなるべく負けないようにディフェンスを固めるタイプでした。
学生時代の友人との交流は今も続いています。今はそれぞれ別の道を歩んでいるわけですが、一緒にゴルフにいって、学生時代のことやら現在のことやら、様々なことを話します。私の場合は、高校からの持ち上がりで大学に進んだこともあり、よけいに友人とのつき合いが深くなったのかもしれません。
学生時代に何が一番重要かというと、一生つき合える友だちを何人持てるかということではないでしょうか。負け惜しみでいうわけではないのですが(笑)、いい成績を取るよりもそのほうがとても価値があることではないかと思います。友人の数が多ければいいというものではない。うわべのつき合いではなく、深い友人関係を構築できるかどうかが重要なのです。これは、百貨店の人材に求められるコミュニケーション能力を養う上でも大切なことではないでしょうか。