建設会社に入社したのは、小さいころから「ものづくり」が好きだったからです。
よく父と一緒に模型飛行機をつくりました。竹ひごをろうそくの火で炙あぶって曲げて骨組みをつくり、それに半紙を丁寧に貼り、ゴムひもを動力にして、近所の野原で飛ばす。鉱石ラジオも父と一緒に秋葉原へ部品を買いにいって手作りしました。
そういう環境で育ったからか、ごく自然にものづくりをすることを志していました。さらに、建築を選んだのは、衣食住に関わる産業は、絶対になくならず、仕事に溢れることはないだろうという単純な発想からでした。
昭和四十六年に入社して、最初に配属されたのは横浜営業所(現在は支店)の現場です。この時の所長は、現場からのたたき上げの、才気あふれる人でした。清水建設に入って、若いころに私が大きな影響を受けた人物が二人いますが、そのうちの一人がこの所長です。新人でも容赦なく、どんどん仕事が与えられ、平日は毎日残業、休日出勤が当たり前、休みは月に二、三日と、当時は自由になる時間などほとんどありませんでした。
一級建築士の受験が可能な年になったので、「勉強したいから今日は早く帰ります」と申し出ても、「だめだ」と受け入れてもらえません。「俺は、行き帰りの電車で問題集を五冊やり通した。それだけで受かった。東大卒のお前なら、そこまでしなくても受かるはずだ。残っている仕事を片付けろ」と、受験勉強のために帰ることなど問題外でした。
このように、非常に厳しい上司でしたが、私たち部下を、愛情を持って育て、見守っていてくれていることは、態度の端々から伝わってきました。ちょうど、岐阜の小学校の担任教師と同じです。だから、仕事帰りに飲みに誘ってもらうと、とてもうれしかった。毎回誘われるわけではなく、新人には声をかけてもらえない日もあって、そんな時は寂しい思いをしたものです。
ある時、私の指示ミスで、コンクリートを間違えて打設し、余計な部分のコンクリートを削ること、これを現場では「斫(はつ)り」といいますが、それが必要になってしまいました。慌てて斫り屋を手配すると、「そんな余分な金はないぞ、帰せ」と所長にひどく怒られました。仕方なく自分の手で斫り作業をしていると、「作業をやめろ。お前にそんなことをさせるために会社に入れたんじゃない」とまた怒鳴られる。(じゃあ一体、どうしたらいいんだ、なんでそんな無理なことをいうんだ)、とそのときは頭に来たのですが、よくよく考えれば所長のいうことはどちらも至極正しい。最初からちゃんと考えていれば、こんな事態は避けられたはずです。以来、現場の作業内容をきちんと把握し、熟考してから適切な行動をとろうと心がけるようになりました。
作業員に指示を出す際も同様です。作業の内容や段取りを理解し、組み立てないままで指示を出しても作業はスムーズに進みません。物事を順序立てて考え、多面的に捉え、本質を見極めるという、仕事の根幹に置くべき考え方を、その所長は身をもって教えてくれました。